2014.1.19 03:07 [産経抄]

 元陸軍少尉、小野田寛郎さんは本紙『戦後史開封』で、ルバング島に潜伏時の心境などを縦横に語っている。昭和49年に帰国してから20年ほど後のことである。その中で、戦争継続を信じる小野田さんの当時の「戦況」分析には思わずうなってしまった。

 ▼「本土決戦に負け、占領されていても、満州(現中国東北部)の80万の兵力を背景に(中国国民政府の)蒋介石らと結び反撃、米国世論を厭戦(えんせん)に導いている」だった。小野田さん救出のための政府派遣団が残していく新聞などをもとにしたのだという。

 ▼うなったのは「満州からの反撃」である。昭和6年の満州事変で関東軍の石原莞爾参謀らは初め、満州占領を目指した。将来米国との「最終戦争」のため、ここに力をためこもうと考えたからだ。若き日の小野田少尉もどこか、これに影響されていたような気がしてならない。

 ▼実際の日本軍はその後、日中戦争に引き込まれたうえ「南進」に転じ、2正面や3正面の戦いを強いられた。その結果手痛い敗北を喫し、満州国も瓦解(がかい)した。反撃の日のため30年近く密林で任務を続けた小野田さんも、この現実には絶句するしかなかっただろう。

 ▼もうひとつ憤慨したのが帰国した後、日本人が「戦争は誤り、悪いこと」としか言わないことだった。寄付でもらった金を靖国神社に納めると市民から「軍国主義に加担するのか」という手紙がきた。「死んだ戦友は、戦犯はどうなるんだ」との思いがした。

 ▼「戦争は一時的に避けることはできても、未来永劫(えいごう)無くなるという100%の保証はない現実に目をつぶっている」とも批判している。40年前のことになったが、このことを日本人に伝えるためにルバングの山を下りてこられたような気がする。

http://sankei.jp.msn.com/life/news/140119/trd14011903090000-n1.htm